『ことばの相談室』徒然

ことばやコミュニケーションについて心配や気になること、お子さんに聞こえの問題があり子育てに不安がある、発達全般について心配がある・・・などなど、国家資格を有するカウンセリングサロンです

手話詩より

「聴者の母に捧げる歌」

 

あなたと私

異なる世界、異なることば、異なる人生の経験

あなたは聞こえる世界に育ち、ろう者を知らない

私はろうの世界に育ち、聞こえることの厚かましさを知り尽くしている

 

そのあなたに男児が生まれる。ろうの!

あなたのショック、私の驚き、そして喜び

 

あなたは子どもを自分と同じに育てたい

けれど育った彼は私と同じ

髪と目と身体はあなたと同じでも

耳と魂、ことばと世界は私と同じ

あなたの息子

でも私の仲間

彼はだれの子?

 

彼は木

仲間がいなければ枯れ、魂を失い、自分をなくす

けれど、あなたがいなければ木もなかった

私たちの仲間もことばも絶えてしまう

 

私たちが戦えばそれは鋸のように木を倒す

やめよう、手をつなぎ受け容れよう

木を育てるために、高く、天高く

 

 

この詩は エラ・マエ・レンツ という米国の女性ろう者が手話で語った詩の日本語訳です。だいぶ前にこの詩を何かの本で読み書き留めておいたものです。

以前、聞こえない子を育てている聞こえるお母さんが言っていました。下にちょっと歳の離れた兄弟が生まれる時「聞こえない兄弟が生まれますように。」って聞こえないお姉ちゃんはお願いしていたそう。本当に聞こえない兄弟が生まれて、お姉ちゃんは大喜びだった、とのこと。

聞こえる親から聞こえない子が生まれる。そしてそこから聞こえない世界へ続く枝葉が脈々と伸びていく。

 

その子の ことば

発達がゆっくりな聞こえる5歳の男の子。簡単な指示を理解することができるようになり、自分からもジェスチャーなどを駆使して伝えようとしてくれます。

 

ある日の個別指導でいきなりズボン(パンツも)を下ろし始めました。その子との個別は初めてだったので私もよく分からずビックリ。急にトイレに行きたくなったのかな?と思いました。

「トイレなの?」と聞くと、ドアの近くに立ち、もう我慢できない〜!みたいな感じに手をドアに向かってかざすので、お母さんとトイレに行ってもらいました。トイレから帰って来て、お母さんにちょっとお話を伺うと、どうも「嫌」な時にズボンを下ろすよう。お母さんも困っていました。

 

なるほど。この子は「嫌な時」「もう終わりにしたい時」言葉では伝えることが難しいのでこういう手段になってしまう。今までの経験の中で、いきなりズボンを下ろしてみたらその場から立ち去ることが出来たので、きっと“こういう風にすれば終われる”と誤学習してしまったのでしょう。

 

さてさて次の個別でも同じようなことがありました。セラピーを行なっている最中にまたまたズボンを下ろし、漏れちゃうよ〜、アピール。一瞬焦ったのですが、そうだった、そうだった、と思い出し、

「もうお終いね。分かった。もう嫌だね。じゃぁ、これで遊ぼうか?」と素敵なおもちゃを見せると目がキラキラ。「じゃぁ、ズボンを履こう。恥ずかしいよ。」「こっちはお終いね。片付けよう。ポイポイ。」と片付け始めると、自分からズボンを履き、片付けを一緒にしてくれました。うふふ!

 

直ぐには修正できないかも知れませんが、こういうことがあったらその度にその子の気持ちを代弁して伝えてあげる。そのうちに「お終い」と<ことば>で伝えてくれる日がきます。きっと!

 

岡本夏木先生の本の中にこんなことばがあります。

<障害児にことばを生み出させる試みに従事する中で、同時に私たちは、彼らのことばが私たちに教えてくれているものを捉えていかねばならない。私たちは、障害児のことばや子どものことばを、自分たちに比べて、低い、未発達で不十分なことばとして捉え、それを私たちのことばへ近づけることにおいてしか、彼らとの言語的関わりを考えていない。しかし、彼らとのコミュニケーション事態の中においては、子ども達も私たちも、ともにひとりの人格的存在として、自己を表現し、相手と通じ合いを求めてことばを用いているのである。そのことにおいて、彼らのことばがいかに変則的であり、またたどたどしくとも、それが持つ意味は大きいのである。そして、私たちが自分のことばのなかにすでに忘れ去っているようなことばの本質が、障害児や子どものことばの中に珠玉のごとく光っているのを見落としてはならないだろう。>

 

日々、お子さん達から学ばせていただいています。

長くなりました。お読みいただきありがとうございます。

特色あるろう学校〜夏の大会より

2日間に渡って開催された<ろう難聴研究会>の夏の大会が本日終了しました。たくさんの方に来ていただき、有難うございました。

今回の大会では3本柱での内容になっており、一つは乳幼児教育相談がテーマ。二つ目は、ろう教員の取り組みについて。そして3つ目は、特色あるろう教育について。

 

特色あるろう教育では千葉ろう学校、栃木ろう学校、明晴学園の先生方からのお話しを伺うことができました。

 

栃木ろう学校の同時法という教育方法についての講演では、50年前に同時法を考え出した先生方の熱い想いが伝わって来ました。そしてその当時の栃木ろう学校の先生方が考えたという障がい者観についての話がありました。

 

<この社会は、聾者と聴者で構成しており、相互にその立場を尊重し合うものと考える。聾者は聴者のようになる必要はなく、聾者が聾者としていきていくこととは当然の人間の権利である。聾者が聾者として生きてゆく意義は高揚されるべきものだと思う>

50年前に考えられたとは思えない内容に驚き、感慨深いものがありました。

 

どうぞ地域のろう学校がこれからもずっと存在し続け、聞こえない子ども達の故郷であり続けますように。

 

お読みくださり有難うございました。 

反り返り

暑い日が続いていますね。私は夏風邪を引いてしまいました。皆さんもお気を付けください。

 

さて、先日、難聴の子を育てているお母さんから「反り返りがひどくて大丈夫なのでしょうか?」という相談がありました。

 

難聴があると診断を受けている赤ちゃん達。不思議なことに多くの赤ちゃんに反り返りが見られます。「抱っこをするのが大変です。」とお母さん達からよく聞きます。

抱っこ紐で抱っこをしていてもその首を後ろの方へ反らせてしまうので、道を歩いているお年寄りの方から注意を受けるお母さんもいます。お母さんはしたくてしている訳ではないのですが。

またブリッジのようにしてそのまま移動している子もいます。そのせいでその子は頭のてっぺんに大きなハゲができてしまいました。

抱っこをするとイナバウアーのように反り返る子もいるので、危なくてなかなか抱っこがうまくいかないこともあります。

どれもこれも難聴の子特有のこと。

三半規管の未熟さからくるのではないか、後ろの情報を得るためにしているのではないか、と言われています。

 

そのうち自然におさまっていく子が多いので、あまり心配する必要はないかと思います。

お読みくださりありがとうございました!

マイノリティーとして生きていくには

以前、私は海外(フランス)で10年近く生活をしていました。日本人が私だけという修道院が経営している学生寮に入っていました。私の他は移民としてフランスに来たベトナム人、戦争のため国を追われた旧ユーゴスラビア人、北欧からの留学生や韓国人なども一緒でした。

私は日本でのマジョリティーの生活からマイノリティーへの生活をすることになりました。このマイノリティーの体験が今の聴覚障害分野での仕事に役に立つことになるとはその時には予想もしていませんでした。

マイノリティーで生きるということは時にとても孤独で辛いものがあります。もちろん差別も受けます。フランス人からすれば、日本人の私は日本人である前に<アジア人>。アジア人よりもヨーロッパ人の方が上、という考え方の人も多いので驚かされたことも度々。言語が違う、文化が違う、習慣が違う。戸惑うことも度々。傷つくことも度々。

異文化の中で暮らして親友と呼べる友達もできました。彼女たちとは国籍やことば、文化を超えて相互尊重という関係が築けたからだと思います。

また私が異文化の中で長いこと暮らせたのは、<日本人である>という確固たるアイデンティティーを持っていたからだと思います。

 

聞こえない人や聞こえない子のことを考える時、このマイノリティーという考え方がしっくりいきます。マジョリティーの中でマイノリティーとして生きていくにはアイデンティティーの確立が大切になってきます。母語を与えること。そしてその集団を与えること。これらが後々、マジョリティーの中で生きていくための自分の核となります。

 

もう一つ長い海外生活でわかったこと。それは<人間の心の深いところにあるもの>ってみんな同じなんだなぁ〜、っていうこと。

 

読んでいただきありがとうございました。

ろう難聴教育研究会 夏の大会

皆様、

 

私が役員をしています ろう難聴教育研究会の夏の大会が今年も開催されます。

今年は7月22日と23日です。

edh.main.jp/

どうぞいらしてください!

内容もとても興味深いものになっていると思います。

 

コミュニケーションって?

電車に乗っているとある青年が大きな声をあげ隣の車両からやってきました。「(ブラインドを)開けてもいいですか。」と言いながら、お客さんが座っている席のブラインドを一つ一つ開けていました。電車内が混んでいてもお構いなしのようです。私が座っている席にもやってきました。私と目がチラッと合うと「開けてもいいですか。」と言い、こちらの有無も聞かずにもうブラインドを開けていました。ブラインドを開けるということがこだわりのようです。言葉を使っていますが、コミュニケーションを取るためのものではなさそうです。

 

また別の日にはこんな男性にも会いました。電車の中で大きな声で駅のアナウンスをしていました。「次は○○。ご乗車有り難うございました。傘のお忘れ物が多くなっています・・・」こちらも言葉の組み立ては当っていますが、ちょっと違和感です。

 

またある日には優先席に座ってスマホをいじり始める人がいると、その人に対してかなりの剣幕で怒鳴り立てる男性がいました。優先席でスマホをいじってはいけないので、その男性が言っていることが正しいのですが、この言い方では言われた方は恐ろしいです。

 

どの場面でも電車に乗っている人たちは白い目でその人を見ていました。何も知らなければちょっとびっくりですね。でも私はそれぞれの人が抱えている課題や生きづらさ、どうしてそういうことをしてしまうのかという理由がちょっと想像できるので、その人の特性について考えたりします。

 

先週、NHK発達障害についての特別番組が放送され、これから1年間の間に定期的に番組が組まれるようです。今まではそんなテーマの番組が定期的に特集されることはなかったのでびっくりです。小・中学生の15人に1人は何らかの発達障害を抱えているそうです。周りの人がその人の特性について理解できるようになり、相互尊重で暮らせるようになると良いな、と思います。