『ことばの相談室』徒然

ことばやコミュニケーションについて心配や気になること、お子さんに聞こえの問題があり子育てに不安がある、発達全般について心配がある・・・などなど、国家資格を有するカウンセリングサロンです

子どもの様子を見る視点

「ろう学校の乳幼児教育相談」というテーマで、言語聴覚士の卵たち用の本に少しだけ書かせていただくことになり、その準備でバタバタしていて、ブログの更新が滞っていました。その執筆にあたり、難聴児支援教材研究会代表の木島照夫先生とやりとりがあり、やっぱり乳幼児教育相談って大事!ということを再確認。木島照夫先生も難聴児支援教材研究会でブログを書いているので、みなさん見てみてくださいね。

 

さて、今回は発達のお話。

ハート&コミュニケーションのことばの相談に来るお子さん達。相談のみのお子さんもいらっしゃいます。その相談のほどんどが「発語がほとんどない」というもの。様子を見ていてもいいのはどういう場合か?様子を見ていないで療育につながった方がいいのはどういう場合か?どんな視点で見ていけばいいのか?

 

まず、3歳以降になっても発語がほとんどないお子さんの場合。様子を見ていないで、地域の発達相談を受診することをおすすめします。聴力に問題がなく、発声発語器官に問題がない場合、発達に問題がある場合が考えられます。3歳児健診があると思いますので、その時に相談してください。

 

子どもの様子を見るときの視点として、「ことばの理解はどうかな。年齢相応かな?」「何かこだわりがある子なのかな?」「落ち着きはあるのかな?」「コミュニケーションの態度はどうかな?」などを見ていきます。

コミュニケーションの態度として、視線は合うかな、何かびっくりしたり、あれ?っと思うような面白いことがあったときに、大好きなママのほうを見るかな、とか、伝えたいことがあったときに、どんな様子なのかな、などを観察します。

こだわりとは、例えば、ミニカーを何台もずっとながーく一列に並べる。少しでもその列が乱されるものなら、癇癪を起こす子もいます。顔を動かさないで横目で物や光を見て、それを続ける子もいます。危ないと思われるところに、どうしても登りたくなる子もいます。

落ち着きのなさは、この時期のお子さんは元気いっぱいなのですが、その動きに目的がない感じのお子さんです。ママのことを確認することなく、目に入ったもの、目に入ったものを目指して動き回り、その動きに目的が感じられないこと。

 

小さい頃から親が上手に関係を作れるようにしていけば、子どもの様子も徐々に変わってきます。

聴覚に問題があるお子さんでも、こだわりやコミュニケーション態度の問題、落ち着きのなさ、は小さい頃から現れてきます。その場合は、聴覚だけの問題ではなく、発達の問題が背後に隠れている場合があるので、親が早くからそれを気づき、関わり方の工夫をしてく必要がありそうです。

 

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ヴァンサンへの手紙

ヴァンサンへの手紙 J’avancerai vers toi avec les yeux d’un sourd

 

皆さん、「ヴァンサンへの手紙」という映画をもうご覧になりました? フランス語のタイトルは「ろう者の視点であなたに近づく」というものです。まだ、ご覧になられていない方はご覧になってみてください。考えさせられます。

 

この映画を観て、どこの国でも同じ事情なんだな、と思いました。ドレペ神父が初めて手話で教育を始めたフランスも、ミラノ宣言の後は口話教育になり、100年もの間、手話が禁止されてきました。

私は、以前、ろう難聴教育研究会の当時の会長である、伊藤政雄先生の講演を聞いたことがあります。強烈に印象に残った話は、口話教育が始まった当日、いきなり大きな壁が学校にできていて、壁の向こう側の様子が見られなくなっていた、とおっしゃっていました。これから入ってくる生徒は口話教育だから、手話をやっているこちら側の様子を見せてはいけないということだったそうです。手話をやっている様子を見たら、羨ましがるだろうからと。

 

映画の中には、様々な聞こえない人が出てきていました。

口話教育のみで育てられ、口話も中途半端。手話もできない。親から離れて生活ができない、自立ができない聞こえない人。物事を深められる思考が育っていなく、単純な思考でしか考えられない聞こえない人。

 

発音練習に明け暮れ、親子関係まで破綻し、「親は私が聞こえないことを、受け入れてくれなかった」と言う ろう者。

 

聴覚障害者>を作り出しているのは、聞こえる人なのだな、とも思いました。映画のコメントに、耳鼻咽喉科医の平野先生が「人工内耳推進派の耳鼻咽喉科医に観てもらいたい」と書いていました。こういう考えのお医者さんが少数派でもいらっしゃることが救いです。聞こえる人に近づけようとさせられる教育に、そして、聞こえない人たちが歩んできた、辛い歴史に、その中で自分たちの言語である手話を仲間とともに守り抜いていたろう者たちの強さに、胸が張り裂けそうでした。

 

映画を観て、私が今携わっている仕事の大切さ、重責を再確認しました。

やはり、ろう教育の原点である乳幼児教育相談が大事ですね。その時に、どんな支援を聞こえる親御さんに行うか。それが、聞こえない子どもとその両親のそれ以降の運命を決めると言っても過言はありませんね。

0歳児で来室された時に、聞こえる親たちに、きちんと聞こえない障害を理解してもらい、健全な親子関係を育てる支援を行うこと。聞こえる親が聞こえない子に寄り添い、ありのままの子どもと向き合い、楽しく子育てができるように支援すること。その重責を抱え、聞こえる世界と聞こえない世界の橋渡しの支援をしていこうと、そういうSTになろうと再確認しました。

 

ある聞こえないお母さんがこのような手記を寄せてくださいました。もしかしたら、このブログを読んでくださっているかも。大変感動したので、載せます。

「ろうの子どもたちはみんな、自分の子どものように本当に可愛いと私は思っています。その想いは私だけでなく、ろうのお母さんなら少なからず、同じような想いは持っているはずです。子どもたちは小さな手で、懸命にお母さんに何かを伝えようとしている。お母さんもお母さんなりに自分の知っている手話で何とか応えようとしている。我が子のありのままの姿をきちんと受け止めようと頑張っている聴者のお母さん方には、もう本当に、感謝の言葉しかありません。」

 

ヴィクトル・ユゴーのことばも胸に迫りました。ユゴーは、ろう者の集まりに度々足を運んでいたようです。

「心で聴くなら、耳が聞こえないことなど何の問題であろうか?問題なのは、聴くことができない心である。」

 

 

 

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うちのワンコ。「これ、全部ぼくの〜」って言っている。

 

 



 

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何気ない耳学問

先日、仕事場で、隣の机でケース検討をされているお二人の先生の話の内容を、パソコンを打ちながら聞いていました。

「一日に喋ると気が済む最低の量があって、女性は6000語なんですって。男性って何語だと思います?」なんていう雑談がありました。「答えは、2000語。男性と女性って、こんなに違うのですね〜。」な〜んていう会話。私はパソコンを打ちながら、(ヘェ〜、そうんなんだぁ〜)と思っていました。そして、私が関わっている聞こえない子ども達のことを想像していました。

 

南村先生が以前の講演会で「愛すること、信じること、想像すること」とおっしゃっていました。「聞こえない世界を常に想像しながら、聞こえないお子さんの子育てをしてください」と。私は聞こえない子どもと関わる仕事をしているので、できるだけ、日々の生活の中で、聞こえない世界を想像するようにしています。

 

聞こえないということは、情報が入りにくいということです。こういう耳学問ができないということ。与えられた情報しか入らないということ。

だから、小さい頃から、情報を自分から取ろうとする子に育てることが大切なのでしょう。三つ子の魂百まで、という諺があるように、小さい頃の関わりがやはり大事になってくるのでしょう。答えをすぐに与えないで、一緒に考える子育て。「どうしてだろう?」と考える子に。そして「なんだろう?」と興味がたくさんある子に。そういう子に育てる。それは聞こえない子どもだけでなく、聞こえる子にとっても大事なこと。でも、聞こえない子は耳学問ができないので、より「知りたがり屋」に育てられるとよいのかも。

 

そして、これは聞こえる子にとっても大事だけれども、読書好きな子に育てる。国語ができる子は、他の教科もよくできる、と言われるけれど、本当にその通り。読み書きができる子に育てること。書くことは、言語思考活動の中で一番難しい。それができる子どもに育てる。

 

手話や口話で話ができても、学習できる言語に育っていない。そういうことにならないよう。表面的なことにとらわれず。小さい頃から、日本語に親しめるように。

 

これから先、大学入試のやり方も変わり、マークシートではなくなり、論じる問題になってくると聞いています。ますます本当の思考の力が問われる時代に入ってきます。その時代を力強く駆け抜けていけるように。

 

あるお母さんがこうおっしゃっていました。「聞こえなくても大丈夫っていうけれど、それは、ちゃんとやるべきことをやった上での大丈夫なんですよね。」なんて深いことば。そしてその通り。

 

これはうちのワンコ。ボールが大好きで、盗まれないように、口にくわえたまま寝ています(笑)。

 

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不安な心

新しい場所、初めて会う人、初めてやること、初めての経験、ちょっとした変化、予定外の出来事など。そういうことに不安になってしまうことってあります。私は自分のことを考えるとき、予定していたこととちょっと違うことになってしまうと、「ま、いいか」と思えずに、ちょっと心が落ち着かなくなってしまうことがあるかな、と思います。

 

発達に偏りのあるお子さん達で、このちょっとした変化にとっても弱い子ども達がいます。

彼らにとって、大人が思う「ちょっとした変化」は、ショッキングなことなのだと思います。

 

あるお子さんはお母さんと帰宅途中、いつも通っている道が工事中だったので、別の道を通らざる負えなくなりました。別の道を通るとパニックを起こし、逃げ出してしまいました。

 

あるお子さんは、今までやったことのない課題を提示したところ、それがとても不安だったようで、床に転がり、自分の頭をバンバンと叩き始めました。

 

あるお子さんは、不安になると、その場面には合わないフレーズを言い始めます。それは大好きなおばあちゃん家に行けるかな、というフレーズ。毎回「〇〇ばあばんち いく?」と聞いてきました。

 

あるお子さんは、次に起こる予定を、何度も何度も確認してきます。

 

あるお子さんは、自分の近くに友達が近づいてくると、押し倒してしまいます。他人は自分にとって、何をするかわからない存在なのでしょう。もしかしたら、今、自分が遊んでいるおもちゃを取っていくかもしれない。

 

あるお子さんは、私と初めて会ったのにも関わらず、いきなり自分のことを話し始め、その話は何の脈絡もなく始まり、そして止まらなくなりました。セラピー中も自分勝手なお話に夢中。

 

彼らは、確実なものへの信頼が大きいのでしょう。一度体験したことで確実に大丈夫だったこと、一緒に遊んで楽しかった人。私もそういう気持ちすっごくわかります。未来は確実なものであって欲しい。でも、それは本当は不確実な要素も含んでいる。

 

一見、<良くない行動><矯正したくなる行動>をする子ども達。でも、その子ども達はとても混沌とした中に生きていて、そういう風にしか<不安である>、ということを表現できない、ということを私たち関わる人たちが理解してあげる必要があるな、と思います。

 

私たち関わる大人が、子どもが今、どうしてこういうことになっているのかを考える。想像力を豊かに。彼らの伝えてくる非言語のことばに耳を傾ける。そして、子どもの大好きな遊びに付き合いながら、子どもとの信頼を築くこと。それが、彼らの安心につながっていくのかな、と私はいつも思います。

 

 

私がずっとみているお子さんの絵。今日も遠くから来てくれる。ありがとう。待ってま〜す。

 

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人工内耳と発達障害

今、人工内耳の手術ができる年齢がだんだんと早くなってきています。以前は1歳半と言われていた年齢が、なんと1歳から(体重が8キロ以上)可能となっています。

私は1歳という年齢での手術に疑問を感じます。たぶん、私だけでなく、他の皆さんも思っていることだと思います。

 

なぜ、疑問に思っているのかをお話しすると、まず、1歳という年齢ではまだ正確な聴力がわかりにくいということ。

赤ちゃんの視力もですが、聴力も1年かけて発達します。聞こえる赤ちゃんでも、生まれてすぐの頃は大きな音にしか反応ができません。だいたい90デシベルの音に反応ができ、半年くらいたつと60デシベル(人の話し声程度)の音に反応ができるようになります。そしてさらに聴覚は発達し、1歳くらいでやっと小さな音にでも反応できるようになるのです。この場合の月齢は、生活年齢ではなく、精神発達年齢で考えていく必要があります。ですから発達がゆっくりなお子さんの場合は、気をつける必要があります。

聞こえない・聞こえにくい赤ちゃんの場合はその過程で音への反応の頭打ちがきます。1ヶ月に1度程度聴力検査をするのですが、聞こえない・聞こえにくい赤ちゃんの場合は、聞こえる赤ちゃんのように聴覚が発達していかないのですね。

なので、1歳になってすぐに人工内耳の手術というのは、まだ聴力の状態がきちんとわかっていない場合もあると思われるので、どうなのかなぁ〜、と思います。

 

それから、もう一つ。1歳ではまだ、その子の発達がどうなのかが見極められないのです。たとえば、自閉症スペクトラム症候群があるお子さんたちの場合、1歳ではなかなかわからない。早くても3歳以降になって、「やっぱりこの子は自閉症スペクトラムがある」という診断がつけられるようになります。知的障害と自閉症があり、かつ聴覚障害を持ち合わせ、人工内耳の手術を受けたお子さんがいます。そういうお子さんを何人か知っているのですが、装用することだけでも難しいのが現実です。親御さんたちとお話しをすると、手術前にお子さんに発達障害があると思っていなく、人工内耳を装用すれば発達が落ち着くのではないか、全ては耳のせいなのではないか、と思われるようです。それで人工内耳手術をしたのだけれども、行動は全く落ち着かない。実はこの子は聴覚障害だけではないのではないか、と手術後にだんだんと理解していくというのが現実です。子どもを理解していく過程は親御さんにとって、本当に大変な時間だと思われます。

ある自閉症のお子さんは、人工内耳をつけると怒ってゴミ箱に捨てていました。お母さんは最初はそれを受け入れられなかったのですが、途中からその子の意思を尊重してあげていました。その決断をするのに、親御さんはどんなに葛藤をしたことだろうと思い、胸が痛くなります。

自閉症という障害は、聴覚過敏があったりすることがおおいので、逆に人工内耳をつけないほうが落ち着いて生活できたりするのかも知れません。

 

病院では、人工内耳を入れたことで、聴力検査の結果が人工内耳を入れていないときよりも良くなった、ということで評価をするそうですが、それだけで評価をすることはどうなのかな、と思うことが多いです。

聴力だけでなく、その子の発達全体、その子の発達の状態、その子の育っている環境、そういうことも全部考えた上での人工内耳手術、という風になればいいな、と思います。

 

私の友達が素敵なプレゼントを贈ってくれました。イギリス製のアンティークのバターナイフ。なんと100年前のですって!すっごいロマン溢れるナイフ。

 

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人工内耳という選択

かなり前なのですが、「音のない世界で」というアメリカのドキュメンタリーを見たことがあります。内容がとても深く、難しく、考えさせられるものだったので記憶に残っています。たしか以下のような内容でした。

 

ろう者の夫婦に生まれた聞こえない女の子の話から始まります。その女の子は聴者の文化に憧れがあり、人工内耳の移植を希望します。両親は娘にろう者として誇りをもって大きくなって欲しいと望んでいます。結局、どんな経過で女の子の気持ちが変化したのかまでは覚えていないのですが、女の子は人工内耳の移植をすることを選択しませんでした。

 

コーダ(ろうの両親から生まれた聴者)である娘に聞こえない子が生まれます。ろう者の祖父母は大喜び。コーダである娘は、聞こえない文化、手話言語を充分理解していて尊重しているのですが、最終的に聞こえない自分の娘に人工内耳の選択をするというものです。コーダである娘が、聞こえない自分の娘に人工内耳をさせることで、ろう者である自分の両親や今まで自分を可愛がってくれた聞こえない人たちを否定することになるのではないか、と悩み、苦しみ、彼女の心の葛藤も描いていました。

 

先日ある本を読みました。聞こえる両親が聞こえない子どもに人工内耳を選択し、その後どのように聞こえない子どもとの関係が変化していくかを数年間にわたって丁寧に追ったものでした。対応手話と音声を使って子どもを育ててきた夫婦2組の話です。それまでは全く音への反応がなかった子どもに、音への反応が見られるようになったということで、聞こえる親にとっては子どもと通じているという感覚が強くなり、子との関係性が変わってきたということを書いています。そして聞こえない子が、親の音声言語を通した著者の言う<声ににじみ出る気持ちの輪郭を理解する>ことで、子ども自身の心の育ちの発達に大きな影響を与えるのではないか、という主旨のものでした。音声日本語を母語としている聞こえる親にとっては、音声言語に自分の気持ちが声のトーンとなって表現される。それが子どもに伝わりやすくなるということで、相互の気持ちの通じ合いの質的改善が認められたということも書かれています。聞こえる親は子どもが少しでも音の世界に近づいてくれると、やはり自分と同じ世界に近づいてきてくれたということで嬉しいのでしょう。しかし、その反面、音声での反応があるということで、聞こえる子どもになったのではないか、という錯覚が両親のなかにおこり、コミュニケーションのすれ違いも起こる場合があることを指摘しています。

そしてその本には、「人工内耳をしたとしても聞こえにくさは解消されないし、聴取改善には個人差が大きい。人工内耳を外せば装用者は再び音のない世界に戻っていくわけであり、その手術は決して聴覚障害を治療するものではない」と書かれています。なので、視覚的な手段である手話や指文字は必ず与えること、そして聴覚障害の仲間とのつながりも大事であると。また、人工内耳の子どもたちに手話や指文字の使用が自由に開かれている、という環境を与えることは大切である、と書かれています。

 

北欧では聞こえない子が生まれたとなると、親は仕事を1年間お休みし、手話講座を集中して受けると聞きました。子どもが人工内耳をしたとしても、手話を与える、ということになっているとのこと。

 

以前、人工内耳をした大学生数名に話をきく機会がありました。装用効果がある人もいれば、そうではない人もいました。でも、共通していたことは、全員が手話を使っていました。日本語対応手話+音声の人もいれば、音声なしの手話の人もいました。そして会場から、子どもに人工内耳をさせるか?という質問があったときに、全員が「させない」と答えていました。

 

私のところに相談にいらっしゃる聞こえる親御さんは、生まれたばかりの赤ちゃんが聞こえないと言われ、それだけでも相当ショックであるのに、何がなんだか分からないまま、やれ補聴器だ、やれ人工内耳だ、療育はどうする、手話を使うのか使わないか、などの選択を次から次へと迫られ、心が落ち着かないまま育児をすることになります。少しでも親御さんの気持ちがはやく落ち着くようにと願わずにはいられません。

 

これからますます人工内耳装用者が増えていくことになるでしょう。人工内耳をして、手話を使わずに育て、聞こえる子の小学校へ入れることを目標に訓練をしているという病院や療育施設があります。私はその考えに反対です。

 

人工内耳の選択は親御さんがするものです。ですから私がその選択をどうのこうの言う立場にはありません。充分な情報を集め、夫婦でよく話し合って決めていただきたいと思っています。そして、選択をする前に、たとえ気持ちが落ち込み、悩み、落ち着かなかったとしても、自分たちの気持ちを律し、聞こえない・聞こえにくいとはどういうことかを充分に理解するように努めてもらいたい。どのようなコミュニケーションをとればよいのかを理解し実践し、子どもに向き合って欲しい。また、子どもと同じ聞こえない人達にたくさん会って欲しいと思います。将来、子どもにどんな風に説明をするのかもきちんと考えておくこともお願いしたいです。

 

そして忘れて欲しくないのは、人工内耳をしても聴覚障害を100%治療できるものではなく、難聴になるためのものであり、必ず聞こえない・聞こえにくい仲間とのつながりや手話や指文字を与えてあげて欲しいと思います。

 

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南村先生の本、在庫まだあります。お問い合わせください。

 

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