聞こえるように見えるけれど
雨の日曜日。台風が接近しているようです。皆さんはいかがお過ごしでしょう。
私が役員をしている ろう・難聴研究会でも、聴覚障害をお持ちのご本人をお呼びしてお話を伺うことがあります。先日も、研究会ではなかったのですが、ご本人のお話を伺う機会がありました。
お話しをしてくださった方々は、まだ大学生。まだまだ口話教育が主流だった時の方ばかり。インテグレーションで聞こえる子の学校に通っていたり、ろう学校に通っていたとしても、まだ手話での教育が今ほど定着していなかった時代の教育を受けた方。そして自分のアイデンティティーに葛藤している若者たちでした。
中には中等度難聴で綺麗におしゃべりができる方もいました。
綺麗におしゃべりができることで隠されてしまう聞こえにくさ。綺麗におしゃべりができるけれど、聞こえない。聞こえるように見えるけれど、聞こえない。そして聞こえないということを周囲の人たちも、本人でさえもよく分からない。聞こえる私たちのように何となく聞いていても相手の話が分かるのではなく、全身全霊で聞かなくてはならず、全身全霊を傾けたとしても全部の情報は分からないし伝わらない。一番自分のことを理解してもらいたいはずの家族にも、聞こえにくいということは理解してもらえず、家族の中でも孤立が深まる。聞いていなかったあなたが悪い、と片付けられてしまう。親は伝えたつもりだったのかも知れないけれど、伝わっていない家族の会話。その積み重ねが毎日毎日起こり、それが何十年と続いてしまう恐ろしさ。
ヘレンケラーが「目が見えないことは私を物から切り離し、耳が聞こえないことは私を人から切り離す」と表現していました。毎回お話を伺う度に心が痛くなる。ジーンと心に突き刺さるような孤独。家族はどうぞ一番の理解者であって欲しい。そしてこのような本人からの話を、言語聴覚士や医療従事者、聴覚教育関係者にももっと聞いてもらいたい!
下の写真はサングラスをかけられて嫌がっているうちのワンコ。