『ことばの相談室』徒然

ことばやコミュニケーションについて心配や気になること、お子さんに聞こえの問題があり子育てに不安がある、発達全般について心配がある・・・などなど、国家資格を有するカウンセリングサロンです

軽中等度難聴

 先日、ろう学校の地域支援の一環として、幼稚園や保育園の先生や保健師さんを対象に「難聴児への支援」というテーマで講演会を行いました。50名近くの方にお越しいただきました。ありがとうございました。

 保育園訪問や幼稚園訪問へうかがうと、先生方から次のような質問を受けます。

 ・補聴器をつけているから聞こえるのですよね?

 ・同じように行動できるから大丈夫なのですよね?

 ・聞こえる子の集団に入れておけば、自然に日本語を獲得できるのですよね?

 ・小さい音にも反応しているので、聞こえているのですよね?

以上のような質問をよく受けます。でも、全部、違います。

 

 ある男性がろう学校の保護者講座でご自分の今までの体験を話してくれました。裸耳で65dB。補聴器で30dB。今は裸耳で80~90dB程度に聴力が低下してしまったとのことでした。裸耳で65dB、補聴器で30dB聞こえると言っても、それは防音室の中での話です。防音室のような世界はこの世の中にありません。この世の中は騒音と雑音にあふれています。補聴器をしても歪みのある音の問題は解消されず、補聴器は雑音を拾ってしまいます。聞こえる私たちのように、騒音の中でも聞きたい音や話だけを聞く力<選択的聴取能力>はありません。

 彼の人生は苦悩に満ち溢れていました。彼は音声言語と手話を用いながら話をしてくれました。聞きながらジーンとするくらいの孤独と怒りが伝わってきました。綺麗にお喋りができるけれども聞こえない。綺麗にお喋りができることで隠されてしまう聞こえにくさ。綺麗にお喋りができることで周囲にもその聞こえづらさを理解してもらえず、そして本人も自分の聞こえしか体験したことがないので、自分が聞こえづらいということが理解できない。聞こえる私たちのように何となく聞いていても相手の話が分かるのではなく、相手の話は全身全霊を傾けて聞かなくてはならない。そして全身全霊を傾けて聞いたとしても全ての情報は分からない。10の情報があったとしてもそのうちの3の情報しか届かなかったらそれが全てとなり、その他の7の情報は無かったと同じになる。怖いことにそこにその7の情報があったことすら分からない。つまり分からないということが分からない。

 一番理解してもらいたいはずの家族にも聞こえ難いことを理解してもらえず、家族の中でコミュニケーションの齟齬が起きる。家族も多分伝えてはいるのだろうけれど、届かない大切な家族間の情報。家族の中で孤立が深まる。聞いていないあなたが悪い、と言われてしまう。そして自分がもっと頑張って聞けば聞こえるかも、頑張らなかった自分が悪いんだ、と自分を責め続ける。そんなコミュニケーションが子供の時から毎日毎日繰り返され、それが何十年も続いてしまう恐ろしさ。

進学校に進学し、有名企業にも就職できた彼は会社でもコミュニケーションに苦しめられ、その後も職を転々とし、長い間引きこもりのような生活をしていると話していました。

 彼は綺麗にお喋りができることに頼ってはいけない、それは最後の砦として残しておきなさい、と最後に訴えていました。綺麗にお喋りができる難聴者が最終的に大人になってから声を切ってしまう方が多いです。それは綺麗にお喋りができることが難聴という障害を隠してしまい、苦労することが多いからでしょう。ただ、彼はまだ声を切ることに葛藤しているようでした。

 以前、人工内耳をしている綺麗にお喋りができる大学生の女性がこんなことを話していました。「私は聞こえる友達と数名で話している時、その会話についていくことができないことが多いです。誰が喋り始めたのかも分からないし、話の内容も途中から全く分からなくなります。そうすると自分の世界に入り込み、みんなが笑うと私も焦って笑います。しばらくそんな状態が続くとこちらも嫌になってくるので、自分から <ところでさ>という言葉を用いて自分から話題を提供します。そうするとその話題になるので、またほんの少しの間だけは皆の会話についていけます。そういう工夫を小さい頃からしています。」

 以前、自身も聴覚障害者である森せい子先生(心理士・精神保健福祉士)が講演会でこんなお話をしてくれました。 

<聞こえない・聞こえ難い障害は音声言語で100%の受信が難しい障害であり、人工内耳にしても100%聞こえる人にはならず、難聴者にするための手術だと言える。音声言語のみで育った聴覚障害児は常に中途半端であり、はっきりしない状況の中で育ち、曖昧な情報の中で自分を主張できず、聞こえない故に理解できないことが無知だと誤解され、人と関わりを持ち難い、一方的な会話になりやすい。聴覚障害者が完全に受け取れる言語「手話と書記日本語」を必ず与えてあげて欲しい。そうではないと生きづらさを抱えた人間になってしまう。手話を使わない聞こえ難い難聴者は聞くこと・聞き取ることに全身全霊を傾けなければならず、聞き取れない時は自責の念や自信喪失、自己肯定感が低下してしまう。聞き返して聞き取れることがあると、もっと頑張れば聞き取れるかも知れないと期待してしまう自分がいる。聞き返しても分からず、口形を見ても読めず、分かったふりや適当にごまかす、周囲の笑いに合わせて笑い、偽りの行為を重ねていくことになる。>

 軽中等度難聴の子は発音が綺麗で、上手に他の子の様子を見て同じように行動ができてしまうので、一見うまくいっているように見えるかも知れませんが、大きくなっても劣等感を持ったまま生きている人が多く、問題があることも見えにくいとも言われています。

 また、音声言語で綺麗におしゃべりができることと言語能力はイコールではありません。その場に合わせたことばの使い方が分からない人が多く、自分から話すことはできるが聞くことができないため、コミュニケーションが一方的であると言われています。コミュニケーション不全から社会的孤立感を抱えている人が多く、グループに入りきれない。それを親だけでなく誰も気づけない。毎日毎日長年繰り返されるコミュニケーション不全から自己肯定感が低くなり、自信につながらない。自分の感情を言語化して伝えたり、人の感情を想像してコミュニケーションをとることが苦手で、変な人、と言われてしまう人が多い。大きくなればなる程、発達障害者が抱える問題に似通ってくるとも言われています。

 そういうことが起こらないようどうするべきか。当たり前のことですが、子ども達は視覚的なものが一番わかるのです。「目の人」ですから。視覚的手段:手話、指文字、絵カード、文字、ジェスチャーなど、を使うこと。使い続けること。そして、周りが聞こえにくさへの理解を深め、家庭での丁寧なコミュニケーションを大事にしていくこと。子どもの聞こえにくい世界を常に想像し、その世界に寄り添うこと。

 

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