『ことばの相談室』徒然

ことばやコミュニケーションについて心配や気になること、お子さんに聞こえの問題があり子育てに不安がある、発達全般について心配がある・・・などなど、国家資格を有するカウンセリングサロンです

子どもの立場に立つ

私がずっと関わっている都内のろう学校の乳幼児教育相談は、その支援の内容がとても充実しています。私は言語聴覚士なので、ろう学校で働く前は病院で、聴覚障害をもつ赤ちゃんやお子さんの聴覚管理や個別指導、グループ指導の仕事をしていました。病院は保険点数が関わってきますから、1回のセッションはひとり20分または40分となっています。内容の濃い指導は不可能に近かった。最大の違いは、新生児スクリーニングを受け、リファーと言われたお子さんのご両親に、「聞こえない・聞こえにくいとはどういうことか(障害認識)」ということを理解していただく、という点だと思っています。

 

先日、ろう学校の0歳児グループの懇談で、ふたりのお母さんが生活の記録に書いてくださった内容を取り上げました。その内容は「子どもが手話で表現してくれるのはとても可愛いし、嬉しい。けれど、やっぱり心のどこかで、音声言語で話してくれたらな、という想いがある」「ろう学校にしばらく行くことができず、意識が低下し、補聴器をすると音に反応するので、難聴だということを忘れて関わっていた」というものでした。

 

ひとりひとりのお母さん方に、この内容を聞いてどう思うかを聞いていきました。皆さん同じような想いをもちろん抱えていました。

 

ひとりのお母さんがこう言いました。「うちの子は聴力が重いので、音声言語、ということに関しては難しいかな、と思っている。だから、手話で表現してくれたらとても嬉しいし、もっと表現して欲しいと思う。表現してくれる以前に、今は、ちゃんと理解できているかな、という視点で子どもを見ている」とおっしゃっていました。このお母さんはお子さんが生後2ヶ月くらいからこの乳幼児教育相談に通っています。この1年で、このお母さんの中に、ものすごい価値観の変化があったのだな、と感慨深く思いました。

 

あるお母さんは、このお正月に実家へ帰省したときに、子どもが補聴器をつけると音に反応したり、声を出す様子を見た祖父母が「聞こえているじゃない。大丈夫よ」と事あるごとに言ってきたことに対しての戸惑いでした。

 

あるお母さんは「まだ赤ちゃんで、聞こえる赤ちゃんと何も変わらない様子を見て、聴覚障害があるということを意識できない」とのことでした。

 

そんな話を皆でしたあとに、南村洋子先生からの一言がありました。

南村先生は私のお師匠さん。先生からはたくさんのことをずっと教えていただいています。この世界に入ったきっかけは南村先生。私の人生に大きな影響を与えてくださった方です。南村先生は<0歳児の間に、その後の親子の将来のほとんどが決まる。そのくらい0歳児の指導は大事。ろう教育の要>と常におっしゃっています。私もそう思います。0歳児の間に親子の愛着関係がきちんと形成され、聞こえる親が自分の価値観を変え、障害認識を深めることができたら、多分、その親子は大丈夫だろうと思います。これは聞こえに関係なく、どんな親子にとっても、この原体験のような時期の親子の愛着関係は、その子のそれ以降の人生の核になっていくと思います。そして、どんな子にとっても、この土台がきちんとしていないと、なにも先に進まない。

 

その南村先生からの一言は「聞こえない子どもの立場に立って考えてほしい」ということでした。周囲からあなたは聞こえているから大丈夫。きれいに話せているから大丈夫、と言われ続けると、本人は聞こえない、分からない、ということが言い出せなくなる。そういう人生をずっと積み重ねていくことになる。そんな話をしてくださいました。

 

グループに指導員として入ってくれている聞こえない先生も「自分は以前は中等度難聴でした。でも今は全く聞こえなくなりました。私も周囲から、あなたは聞こえている、きれいに話せているから大丈夫、と言われ続け、聞こえない、ということが言い出せなくなり、分からないことが分からなくなってしまった」とおっしゃっていました。

 

そんな話を聞いていたお母さん方の何人かは、涙を拭いていました。そして、あるお母さんが、「結局は、自分が変わる必要がある」とおっしゃいました。皆、深く頷きました。

 

そんな深い内容の2時間半のグループ活動を終え、グループダイナミックの力と、自分だけではない、という感覚、そして、話をすることで自分の気持ちを<放ち>、自分のなかに落とし込み、自分と子どもと向き合い、今自分が思っていることと向き合う、そういう支援ができるこの乳幼児教育相談は本当の支援をしている場所、原点であると思います。そういう支援ができるこの乳幼児教育相談を大切にしていきたい。そして、この乳幼児教育相談に来てくださる親子がこれから先、ずっと笑顔でいられるように、願わずにはいられません。

 

 

さてさて、この写真は、フランスから持ち帰ったアルザスのバター入れ。こんなふうに水を入れ、バターを入れます。水が入っているからバターが酸化しないのです。しかも容器は保冷される効果があります。すごく便利!日本でも売っているといいのに。

それからこちらは大好きなコンフィドカナール。鴨を焼いた油でジャガイモを炒めていただきました。ボナペティ!

 

 

 

 

 

 

 

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子どもの留学

先日、朝のNHKニュースを見てビックリしたことがありました。

日本では、今、小さい頃から子どもを英語圏の国へ留学させるのが流行っているとのこと。子どもを日本語と英語のバイリンガルに育て、国際的感覚を身につけさせたい、と思う親が増えているそうなのです。小学生の頃から子どもだけを留学させたり、あるいは、父親は日本にいて仕事をし、子どもの留学に付き添って母親も海外で暮らし、家族バラバラの生活をしている、という家族もいました。もうビックリです。家族での関わりよりも、英語の方が大事?と思いました。

取材をされていた子ども達は、皆、それぞれが大変さを抱えていました。

ある子は英語の方が上達して、日本語が喋れなくなりつつあり、親とのコミュニケーションは日本語ではなく、親は日本語、子どもは英語。こういう子ども達の場合、将来はどうなるのかなぁ、と思いました。きっといつかアイデンティティの問題も出てくるだろうなぁ。

バイリンガル、というのは、どこまでのレベルをこの番組では言っているのかな、とも思いました。ちょっとした英語の会話や生活レベルでの英語の会話ができるようになるのにはそんなに時間はかかりません。でも、読んだり、書いたりするレベルまでいくのには、大変なことです。そして、求められるのは、その英語を使って、なにをするのか、なにを語るのか、というところ。語学は手段であって、目的ではないということ。

ある子は小さい頃から自立を求められる海外での生活に、面食らっていました。日本は子ども天国、ということ。日本では子ども中心に家族が回っているところがありますが、海外ではまずは夫婦。そして子ども、という感じです。子どもに対して結構厳しく、子ども達は早く大人になりたい、と思うようです。例えば、友達を呼んでの夕食の時には、子ども達だけを先に食べさせ、寝かせ、そのあと、大人だけでゆっくりと楽しむ。レストランも子どもが入れるレストランはほとんどありませんでした。子ども達はベビーシッターに預けられ、大人だけがレストランに行く。

常に「個」を求められる海外では、どんな些細なことでも自分の意見を言うことになっています。これは土居健郎先生の「甘えの構造」にも書かれていますが、選択の自由が明確に与えられている。

このニュースを見ていて思ったことは、子どもに小さい頃から英語を学ばせる前に、やっぱりきちんとした母国語である日本語を習得させるのが先決ではないのかな、ということ。海外で本当の意味でのバイリンガルの人に会うと、たいていの方は大人になってから英語を身につけられた人。ひとつの言語がきちんと習得できないと、もうひとつの言語なんて習得できないし、思考もできなくなる。そして、その真のバイリンガルの人たちは、その母語である日本語の語彙が豊かで、日本語での表現力もレベルが高い人だったなぁ。

 

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傷つけないで欲しい

 長いこと発達障害児の療育の現場を担当するベテランの臨床心理士の先生と話していてハッとしたことがありました。

 その先生は東田直樹さんの講演会に参加されたそうです。東田直樹さんは自閉症で、「僕が飛び跳ねる理由」という本を書いた方。一見すると、ちゃんと言葉もしゃべれないし、走り回ったり、ウロウロしてしまったり、大声を出したりするので、その様子を見ていると「自閉症」。障害のために、音声言語で流暢に会話をすることが難しく、平仮名ボードを使い、自分の内面や感じていることを表現するようになったのは、中学生のときからのようです。

 一見すると「自閉症」。でもその内面には感受性豊かな世界が広がり、哲学者のような視点が隠れています。見かけで判断するのはいけないですね。

 東田さんが小さい頃に通っていた療育で、自分で選んだ動物のシールを貼る、ということをしたとき、東田さんは黒と白のコントラストに興味を持ち、パンダを選んだそうです。すると周りにいた療育の先生方が「直樹くんは、パンダが好きなんだね〜」。本人は、「別にパンダが好きなわけじゃないんだけどな〜」と思っていたそう。次の日もまた動物シールを選ぶ場面があり、昨日と同じものを選ぶのかと思いパンダシールを選ぶと、先生方が「あ〜!やっぱり直樹くんはパンダが好きなんだね!」。東田さんは「そうじゃないんだけどな〜」と思っていたそうです。

 そして、療育にたずさわる先生方にお願いしたいことを聞かれると、「親と子どもを傷つけないで欲しい」と。

 この言葉は重いですね。

 

先日、あるお子さんとご両親とのセラピーで、ご両親が心配でいろいろなことを質問されてきました。ご両親は大変心配されているので、困っていること、保育園での様子、どうしてこうなってしまうのか、などを涙ながらに質問され、私がそれに答えるということがありました。もしかしたら、振り返ると、その中で私は「親と子どもを傷つけていた」かも知れないな、と思い、心が重くなりました。その子は親が泣きながら自分の話をしているのを見て、心配に思っていたかも知れません。こういう話をするときには、敏感にならないといけないかも知れません。

 一見すると発達障害が重く、きっと私たちが話していることも分かっていないかも、と思えるような子でも、もしかしたらその子の中には、豊かな言葉と心が広がり、ただ、それが表現できないだけかも知れません。私たちセラピストは気をつけるべきですね。

 

 話は変わり、この間の療育センターのセラピーでとっても大笑いしたことがありました。その子は私との個別をとても楽しみしてくれていて、最近は落ち着いて課題を一緒におこなうことができるようになりました。一緒にカテゴリー分けをしているとき、ピーマンのミニチュアを見せて、私が「これ なんて名前?」と聞くと、自信満々に「ピーターパン!」。もうその様子に大笑い。私がとってもウケているのでその様子を見てその子も大笑い。「ピーマンだよ〜!」と言うと、「ピーマン!」と言っていました。

 私はできるだけ、この子たちの記憶の中に、「楽しい時間を共有できた人」として残りたい。

 

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子ども達の名言

 子どもってすごいな!と思った瞬間。皆さんと分かち合いたくて、書きます。

 

 発達に偏りのある年長さんの男の子。月に1回、私とのセラピーのために来室してくれます。初めて会った年中さんの頃は、ちょっとでも難しかったり、やったことがなかったりする課題を見ると、もうドキドキ緊張してしまい、不安になり、落ち着きがなくなり、その気持ちを言語化することができないので、床に寝転んだり、机の下に隠れてしまったりしていました。どうしてそんなことをしているのかが分からない人が見ると、ただの怠け者のダラけた子ども。でも、本当は違う。とっても繊細な子。1年経ち、成長し、初めてやる課題にも挑戦することができるようになりました。

 先日、その日に一緒にやりたい課題を机の上に並べ、彼に見せ、どの順番でやりたいかを決めてもらいました。1番から順番に決め、順番を決め終わったとき、

 「ぼくね。好きなのはあとにするんだよ。」

と言いました! もう、チョ〜感動!そんな表現ができるようになったんだ〜!

 「先生もね。〇〇くんと同じ。好きなのはあとなんだ〜。でも、先生の家の犬は、好きなのは最初なんだよ。」

そのやりとりを傍らで聞いていたお母さん。大笑いしていました。私も大笑い。

 

 聞こえない2歳児の男の子。大好きな女の子に家から持って来たお菓子をあげました。女の子は聞こえにくい子。音声と手話で「ありがとう」と男の子に伝えると、その子は手話で

 「ありがとう は いらないよ。」

と言ったのです! もう、なんだか格好いいじゃない!こんな会話が2歳児でできるの〜?!え〜!すごくない!!!

 

 最近感動した、子ども達の名言でした。

 子どもってすごい!

 

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好きなのは最初のうちの犬。

 

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軽中等度難聴

 先日、ろう学校の地域支援の一環として、幼稚園や保育園の先生や保健師さんを対象に「難聴児への支援」というテーマで講演会を行いました。50名近くの方にお越しいただきました。ありがとうございました。

 保育園訪問や幼稚園訪問へうかがうと、先生方から次のような質問を受けます。

 ・補聴器をつけているから聞こえるのですよね?

 ・同じように行動できるから大丈夫なのですよね?

 ・聞こえる子の集団に入れておけば、自然に日本語を獲得できるのですよね?

 ・小さい音にも反応しているので、聞こえているのですよね?

以上のような質問をよく受けます。でも、全部、違います。

 

 ある男性がろう学校の保護者講座でご自分の今までの体験を話してくれました。裸耳で65dB。補聴器で30dB。今は裸耳で80~90dB程度に聴力が低下してしまったとのことでした。裸耳で65dB、補聴器で30dB聞こえると言っても、それは防音室の中での話です。防音室のような世界はこの世の中にありません。この世の中は騒音と雑音にあふれています。補聴器をしても歪みのある音の問題は解消されず、補聴器は雑音を拾ってしまいます。聞こえる私たちのように、騒音の中でも聞きたい音や話だけを聞く力<選択的聴取能力>はありません。

 彼の人生は苦悩に満ち溢れていました。彼は音声言語と手話を用いながら話をしてくれました。聞きながらジーンとするくらいの孤独と怒りが伝わってきました。綺麗にお喋りができるけれども聞こえない。綺麗にお喋りができることで隠されてしまう聞こえにくさ。綺麗にお喋りができることで周囲にもその聞こえづらさを理解してもらえず、そして本人も自分の聞こえしか体験したことがないので、自分が聞こえづらいということが理解できない。聞こえる私たちのように何となく聞いていても相手の話が分かるのではなく、相手の話は全身全霊を傾けて聞かなくてはならない。そして全身全霊を傾けて聞いたとしても全ての情報は分からない。10の情報があったとしてもそのうちの3の情報しか届かなかったらそれが全てとなり、その他の7の情報は無かったと同じになる。怖いことにそこにその7の情報があったことすら分からない。つまり分からないということが分からない。

 一番理解してもらいたいはずの家族にも聞こえ難いことを理解してもらえず、家族の中でコミュニケーションの齟齬が起きる。家族も多分伝えてはいるのだろうけれど、届かない大切な家族間の情報。家族の中で孤立が深まる。聞いていないあなたが悪い、と言われてしまう。そして自分がもっと頑張って聞けば聞こえるかも、頑張らなかった自分が悪いんだ、と自分を責め続ける。そんなコミュニケーションが子供の時から毎日毎日繰り返され、それが何十年も続いてしまう恐ろしさ。

進学校に進学し、有名企業にも就職できた彼は会社でもコミュニケーションに苦しめられ、その後も職を転々とし、長い間引きこもりのような生活をしていると話していました。

 彼は綺麗にお喋りができることに頼ってはいけない、それは最後の砦として残しておきなさい、と最後に訴えていました。綺麗にお喋りができる難聴者が最終的に大人になってから声を切ってしまう方が多いです。それは綺麗にお喋りができることが難聴という障害を隠してしまい、苦労することが多いからでしょう。ただ、彼はまだ声を切ることに葛藤しているようでした。

 以前、人工内耳をしている綺麗にお喋りができる大学生の女性がこんなことを話していました。「私は聞こえる友達と数名で話している時、その会話についていくことができないことが多いです。誰が喋り始めたのかも分からないし、話の内容も途中から全く分からなくなります。そうすると自分の世界に入り込み、みんなが笑うと私も焦って笑います。しばらくそんな状態が続くとこちらも嫌になってくるので、自分から <ところでさ>という言葉を用いて自分から話題を提供します。そうするとその話題になるので、またほんの少しの間だけは皆の会話についていけます。そういう工夫を小さい頃からしています。」

 以前、自身も聴覚障害者である森せい子先生(心理士・精神保健福祉士)が講演会でこんなお話をしてくれました。 

<聞こえない・聞こえ難い障害は音声言語で100%の受信が難しい障害であり、人工内耳にしても100%聞こえる人にはならず、難聴者にするための手術だと言える。音声言語のみで育った聴覚障害児は常に中途半端であり、はっきりしない状況の中で育ち、曖昧な情報の中で自分を主張できず、聞こえない故に理解できないことが無知だと誤解され、人と関わりを持ち難い、一方的な会話になりやすい。聴覚障害者が完全に受け取れる言語「手話と書記日本語」を必ず与えてあげて欲しい。そうではないと生きづらさを抱えた人間になってしまう。手話を使わない聞こえ難い難聴者は聞くこと・聞き取ることに全身全霊を傾けなければならず、聞き取れない時は自責の念や自信喪失、自己肯定感が低下してしまう。聞き返して聞き取れることがあると、もっと頑張れば聞き取れるかも知れないと期待してしまう自分がいる。聞き返しても分からず、口形を見ても読めず、分かったふりや適当にごまかす、周囲の笑いに合わせて笑い、偽りの行為を重ねていくことになる。>

 軽中等度難聴の子は発音が綺麗で、上手に他の子の様子を見て同じように行動ができてしまうので、一見うまくいっているように見えるかも知れませんが、大きくなっても劣等感を持ったまま生きている人が多く、問題があることも見えにくいとも言われています。

 また、音声言語で綺麗におしゃべりができることと言語能力はイコールではありません。その場に合わせたことばの使い方が分からない人が多く、自分から話すことはできるが聞くことができないため、コミュニケーションが一方的であると言われています。コミュニケーション不全から社会的孤立感を抱えている人が多く、グループに入りきれない。それを親だけでなく誰も気づけない。毎日毎日長年繰り返されるコミュニケーション不全から自己肯定感が低くなり、自信につながらない。自分の感情を言語化して伝えたり、人の感情を想像してコミュニケーションをとることが苦手で、変な人、と言われてしまう人が多い。大きくなればなる程、発達障害者が抱える問題に似通ってくるとも言われています。

 そういうことが起こらないようどうするべきか。当たり前のことですが、子ども達は視覚的なものが一番わかるのです。「目の人」ですから。視覚的手段:手話、指文字、絵カード、文字、ジェスチャーなど、を使うこと。使い続けること。そして、周りが聞こえにくさへの理解を深め、家庭での丁寧なコミュニケーションを大事にしていくこと。子どもの聞こえにくい世界を常に想像し、その世界に寄り添うこと。

 

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嬉しいお便り

こんな嬉しいメールが届きました。

ハート&コミュニケーションに来ているAくん、年中さん。最近、場面にあった表現が少しずつ増えてきました。

庭にプラムの木が2本あるのですね。プラムが大好きなので5年前に植えてみました。植えたときはヒョロヒョロで、小さい苗木でした。2本別の種類があると、自然に受粉して実がなる、と聞いたので、狭い庭に2本を植えてみたのです。3年目になると桜の花のようなちょとピンクかかった花が咲くようになりました。4年目にはその花のあとに実がなるようになり、収穫できるようになりました。1本の木でたぶん300個くらいの実がなります。すっご〜く甘い。

実がなっている間は毎朝収穫して、採りたてを食べます。食べ切れないので、ジャムにしたり、果実酒にしたり、シロップにしたり、お裾分けをして食べてもらったりしています。

そのプラムの実を全部採らないで、今年はわざと残しておいたのですね。ハート&コミュニケーションに来る子ども達に収穫体験をしてもらおうと思って。ちょっと熟しすぎて柔らかくなってしまうことが心配でしたけれど、どうにかもちました。

 

さて、そのAくん。私がまず実を採る様子を見せました。

「プラム、エイって採るよ〜!」

採ったプラムをAくんに見せると、「トマト」と言っていました。赤くて小さいから、トマトに見えたのでしょうね。

「これ、プラムだよ。甘くて美味しいよ。」と伝えましたが、どうしても「トマト」。

さて、収穫したプラムを食べてみました。まずは食べるところを見せ、Aくんにも食べてもらう。こわごわ口にいれていましたが、気に入って食べてくれました。

 

その日の夜、次のようなメッセージがママから流れてきました。

 

<本日はありがとうございました。

「くみこせんせい、たのしかったね」「プラム、おいしかったね」と言っていました(A 本人からです)。

こうやって言うのは無論初めてですし、せっかくの療育での思い出をこうやって息子と語れるのが嬉しいです。>

 

やっぱり体験が大事ですね。

あんなにトマトと言っていたのに、ちゃ〜んとプラムって言えていて、プラムというイメージがたくさんAくんの中に入った、という証拠です。

 

以前、本末転倒の療育現場を見たことがあります。

子どもが並んだ絵カードから言われたカードを取る、ということをしていました。

「えんそく」と言われて、「えんそく」の絵カードをとっていたのですが、その子は実は一度も遠足に行ったことがない!とのこと。

 

ことばを増やすことに躍起になり、「ハイ、絵カードね!」ということになってしまうのかも知れませんが、それでは本当のことばは育ちません。ことばは当たり前のことですが、やはり心と心のつながりであるコミュニケーションの中で育つのです。そして、実体験がことばの力を後押しするのです。

 

これはうちの犬。納戸に入っているボールが欲しくて訴えています。

「ペットボトルで遊ぼうよ」と誘っても、「いえいえ、ボールでお願いします」と言っているところ。

 

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第41回 ろう・難聴教育研究大会のご案内

ろう難聴教育研究会 第41回夏の大会

 

ろう難聴教育研究会の夏の大会が来週開催されます。

今年は大会での初めての試みとして、「ヴァンサンへの手紙」の映画上映を行います。その後、この映画を日本に紹介してくださった牧原依里さんと「デフヴォイス」「慟哭は聞こえない」の著者である丸山正樹さんとの対談が行われます。

 

2019年8月24日(土)・8月25日(日)

会場:日本大学文理学部 オーバルホール(図書館3階)

問い合わせ先:Fax 03-3884-9582  info@edh.main.jp前田芳弘

       Tel 03-3579-8355 森崎恵子

参加費:会員一般 2日間 5000円 1日のみ参加 3000円

    会員学生・親   2000円         1000円

    非会員一般    7000円                4000円

    非会員学生・親    4000円        2000円

 

<プログラム>

8月24日

10:00~12:00出版記念講演 南村洋子

13:00~15:00 映画上映「ヴァンサンへの手紙

15:00~16:30 牧原依里(映画作家)さんと丸山正樹(小説家)さんとの対談

 

8月25日

9:00~10:20 出版記念講演 矢沢国光

10:30~12:00ろう学校の教育実践報告「自ら遊び、自ら学ぶ<ろう保育>を掲げて」

      戸田康之(大宮ろう学園)

13:00~16:50 「聴覚障害教育は人工内耳とどう向き合っていけば良いのか」

      医療の立場からの情報提供・問題提起 斎藤宏(帝京大学病院 言語聴覚士

      幼児期からの人工内耳装用者の思い 

                        田口佳祐(千葉県立柏特別支援学校教員)・宮寺智成(appleストア)

         曽根一輝(松山聾学校教員)・設楽明寿