『ことばの相談室』徒然

ことばやコミュニケーションについて心配や気になること、お子さんに聞こえの問題があり子育てに不安がある、発達全般について心配がある・・・などなど、国家資格を有するカウンセリングサロンです

ヴァンサンへの手紙

ヴァンサンへの手紙 J’avancerai vers toi avec les yeux d’un sourd

 

皆さん、「ヴァンサンへの手紙」という映画をもうご覧になりました? フランス語のタイトルは「ろう者の視点であなたに近づく」というものです。まだ、ご覧になられていない方はご覧になってみてください。考えさせられます。

 

この映画を観て、どこの国でも同じ事情なんだな、と思いました。ドレペ神父が初めて手話で教育を始めたフランスも、ミラノ宣言の後は口話教育になり、100年もの間、手話が禁止されてきました。

私は、以前、ろう難聴教育研究会の当時の会長である、伊藤政雄先生の講演を聞いたことがあります。強烈に印象に残った話は、口話教育が始まった当日、いきなり大きな壁が学校にできていて、壁の向こう側の様子が見られなくなっていた、とおっしゃっていました。これから入ってくる生徒は口話教育だから、手話をやっているこちら側の様子を見せてはいけないということだったそうです。手話をやっている様子を見たら、羨ましがるだろうからと。

 

映画の中には、様々な聞こえない人が出てきていました。

口話教育のみで育てられ、口話も中途半端。手話もできない。親から離れて生活ができない、自立ができない聞こえない人。物事を深められる思考が育っていなく、単純な思考でしか考えられない聞こえない人。

 

発音練習に明け暮れ、親子関係まで破綻し、「親は私が聞こえないことを、受け入れてくれなかった」と言う ろう者。

 

聴覚障害者>を作り出しているのは、聞こえる人なのだな、とも思いました。映画のコメントに、耳鼻咽喉科医の平野先生が「人工内耳推進派の耳鼻咽喉科医に観てもらいたい」と書いていました。こういう考えのお医者さんが少数派でもいらっしゃることが救いです。聞こえる人に近づけようとさせられる教育に、そして、聞こえない人たちが歩んできた、辛い歴史に、その中で自分たちの言語である手話を仲間とともに守り抜いていたろう者たちの強さに、胸が張り裂けそうでした。

 

映画を観て、私が今携わっている仕事の大切さ、重責を再確認しました。

やはり、ろう教育の原点である乳幼児教育相談が大事ですね。その時に、どんな支援を聞こえる親御さんに行うか。それが、聞こえない子どもとその両親のそれ以降の運命を決めると言っても過言はありませんね。

0歳児で来室された時に、聞こえる親たちに、きちんと聞こえない障害を理解してもらい、健全な親子関係を育てる支援を行うこと。聞こえる親が聞こえない子に寄り添い、ありのままの子どもと向き合い、楽しく子育てができるように支援すること。その重責を抱え、聞こえる世界と聞こえない世界の橋渡しの支援をしていこうと、そういうSTになろうと再確認しました。

 

ある聞こえないお母さんがこのような手記を寄せてくださいました。もしかしたら、このブログを読んでくださっているかも。大変感動したので、載せます。

「ろうの子どもたちはみんな、自分の子どものように本当に可愛いと私は思っています。その想いは私だけでなく、ろうのお母さんなら少なからず、同じような想いは持っているはずです。子どもたちは小さな手で、懸命にお母さんに何かを伝えようとしている。お母さんもお母さんなりに自分の知っている手話で何とか応えようとしている。我が子のありのままの姿をきちんと受け止めようと頑張っている聴者のお母さん方には、もう本当に、感謝の言葉しかありません。」

 

ヴィクトル・ユゴーのことばも胸に迫りました。ユゴーは、ろう者の集まりに度々足を運んでいたようです。

「心で聴くなら、耳が聞こえないことなど何の問題であろうか?問題なのは、聴くことができない心である。」

 

 

 

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うちのワンコ。「これ、全部ぼくの〜」って言っている。

 

 



 

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何気ない耳学問

先日、仕事場で、隣の机でケース検討をされているお二人の先生の話の内容を、パソコンを打ちながら聞いていました。

「一日に喋ると気が済む最低の量があって、女性は6000語なんですって。男性って何語だと思います?」なんていう雑談がありました。「答えは、2000語。男性と女性って、こんなに違うのですね〜。」な〜んていう会話。私はパソコンを打ちながら、(ヘェ〜、そうんなんだぁ〜)と思っていました。そして、私が関わっている聞こえない子ども達のことを想像していました。

 

南村先生が以前の講演会で「愛すること、信じること、想像すること」とおっしゃっていました。「聞こえない世界を常に想像しながら、聞こえないお子さんの子育てをしてください」と。私は聞こえない子どもと関わる仕事をしているので、できるだけ、日々の生活の中で、聞こえない世界を想像するようにしています。

 

聞こえないということは、情報が入りにくいということです。こういう耳学問ができないということ。与えられた情報しか入らないということ。

だから、小さい頃から、情報を自分から取ろうとする子に育てることが大切なのでしょう。三つ子の魂百まで、という諺があるように、小さい頃の関わりがやはり大事になってくるのでしょう。答えをすぐに与えないで、一緒に考える子育て。「どうしてだろう?」と考える子に。そして「なんだろう?」と興味がたくさんある子に。そういう子に育てる。それは聞こえない子どもだけでなく、聞こえる子にとっても大事なこと。でも、聞こえない子は耳学問ができないので、より「知りたがり屋」に育てられるとよいのかも。

 

そして、これは聞こえる子にとっても大事だけれども、読書好きな子に育てる。国語ができる子は、他の教科もよくできる、と言われるけれど、本当にその通り。読み書きができる子に育てること。書くことは、言語思考活動の中で一番難しい。それができる子どもに育てる。

 

手話や口話で話ができても、学習できる言語に育っていない。そういうことにならないよう。表面的なことにとらわれず。小さい頃から、日本語に親しめるように。

 

これから先、大学入試のやり方も変わり、マークシートではなくなり、論じる問題になってくると聞いています。ますます本当の思考の力が問われる時代に入ってきます。その時代を力強く駆け抜けていけるように。

 

あるお母さんがこうおっしゃっていました。「聞こえなくても大丈夫っていうけれど、それは、ちゃんとやるべきことをやった上での大丈夫なんですよね。」なんて深いことば。そしてその通り。

 

これはうちのワンコ。ボールが大好きで、盗まれないように、口にくわえたまま寝ています(笑)。

 

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不安な心

新しい場所、初めて会う人、初めてやること、初めての経験、ちょっとした変化、予定外の出来事など。そういうことに不安になってしまうことってあります。私は自分のことを考えるとき、予定していたこととちょっと違うことになってしまうと、「ま、いいか」と思えずに、ちょっと心が落ち着かなくなってしまうことがあるかな、と思います。

 

発達に偏りのあるお子さん達で、このちょっとした変化にとっても弱い子ども達がいます。

彼らにとって、大人が思う「ちょっとした変化」は、ショッキングなことなのだと思います。

 

あるお子さんはお母さんと帰宅途中、いつも通っている道が工事中だったので、別の道を通らざる負えなくなりました。別の道を通るとパニックを起こし、逃げ出してしまいました。

 

あるお子さんは、今までやったことのない課題を提示したところ、それがとても不安だったようで、床に転がり、自分の頭をバンバンと叩き始めました。

 

あるお子さんは、不安になると、その場面には合わないフレーズを言い始めます。それは大好きなおばあちゃん家に行けるかな、というフレーズ。毎回「〇〇ばあばんち いく?」と聞いてきました。

 

あるお子さんは、次に起こる予定を、何度も何度も確認してきます。

 

あるお子さんは、自分の近くに友達が近づいてくると、押し倒してしまいます。他人は自分にとって、何をするかわからない存在なのでしょう。もしかしたら、今、自分が遊んでいるおもちゃを取っていくかもしれない。

 

あるお子さんは、私と初めて会ったのにも関わらず、いきなり自分のことを話し始め、その話は何の脈絡もなく始まり、そして止まらなくなりました。セラピー中も自分勝手なお話に夢中。

 

彼らは、確実なものへの信頼が大きいのでしょう。一度体験したことで確実に大丈夫だったこと、一緒に遊んで楽しかった人。私もそういう気持ちすっごくわかります。未来は確実なものであって欲しい。でも、それは本当は不確実な要素も含んでいる。

 

一見、<良くない行動><矯正したくなる行動>をする子ども達。でも、その子ども達はとても混沌とした中に生きていて、そういう風にしか<不安である>、ということを表現できない、ということを私たち関わる人たちが理解してあげる必要があるな、と思います。

 

私たち関わる大人が、子どもが今、どうしてこういうことになっているのかを考える。想像力を豊かに。彼らの伝えてくる非言語のことばに耳を傾ける。そして、子どもの大好きな遊びに付き合いながら、子どもとの信頼を築くこと。それが、彼らの安心につながっていくのかな、と私はいつも思います。

 

 

私がずっとみているお子さんの絵。今日も遠くから来てくれる。ありがとう。待ってま〜す。

 

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人工内耳と発達障害

今、人工内耳の手術ができる年齢がだんだんと早くなってきています。以前は1歳半と言われていた年齢が、なんと1歳から(体重が8キロ以上)可能となっています。

私は1歳という年齢での手術に疑問を感じます。たぶん、私だけでなく、他の皆さんも思っていることだと思います。

 

なぜ、疑問に思っているのかをお話しすると、まず、1歳という年齢ではまだ正確な聴力がわかりにくいということ。

赤ちゃんの視力もですが、聴力も1年かけて発達します。聞こえる赤ちゃんでも、生まれてすぐの頃は大きな音にしか反応ができません。だいたい90デシベルの音に反応ができ、半年くらいたつと60デシベル(人の話し声程度)の音に反応ができるようになります。そしてさらに聴覚は発達し、1歳くらいでやっと小さな音にでも反応できるようになるのです。この場合の月齢は、生活年齢ではなく、精神発達年齢で考えていく必要があります。ですから発達がゆっくりなお子さんの場合は、気をつける必要があります。

聞こえない・聞こえにくい赤ちゃんの場合はその過程で音への反応の頭打ちがきます。1ヶ月に1度程度聴力検査をするのですが、聞こえない・聞こえにくい赤ちゃんの場合は、聞こえる赤ちゃんのように聴覚が発達していかないのですね。

なので、1歳になってすぐに人工内耳の手術というのは、まだ聴力の状態がきちんとわかっていない場合もあると思われるので、どうなのかなぁ〜、と思います。

 

それから、もう一つ。1歳ではまだ、その子の発達がどうなのかが見極められないのです。たとえば、自閉症スペクトラム症候群があるお子さんたちの場合、1歳ではなかなかわからない。早くても3歳以降になって、「やっぱりこの子は自閉症スペクトラムがある」という診断がつけられるようになります。知的障害と自閉症があり、かつ聴覚障害を持ち合わせ、人工内耳の手術を受けたお子さんがいます。そういうお子さんを何人か知っているのですが、装用することだけでも難しいのが現実です。親御さんたちとお話しをすると、手術前にお子さんに発達障害があると思っていなく、人工内耳を装用すれば発達が落ち着くのではないか、全ては耳のせいなのではないか、と思われるようです。それで人工内耳手術をしたのだけれども、行動は全く落ち着かない。実はこの子は聴覚障害だけではないのではないか、と手術後にだんだんと理解していくというのが現実です。子どもを理解していく過程は親御さんにとって、本当に大変な時間だと思われます。

ある自閉症のお子さんは、人工内耳をつけると怒ってゴミ箱に捨てていました。お母さんは最初はそれを受け入れられなかったのですが、途中からその子の意思を尊重してあげていました。その決断をするのに、親御さんはどんなに葛藤をしたことだろうと思い、胸が痛くなります。

自閉症という障害は、聴覚過敏があったりすることがおおいので、逆に人工内耳をつけないほうが落ち着いて生活できたりするのかも知れません。

 

病院では、人工内耳を入れたことで、聴力検査の結果が人工内耳を入れていないときよりも良くなった、ということで評価をするそうですが、それだけで評価をすることはどうなのかな、と思うことが多いです。

聴力だけでなく、その子の発達全体、その子の発達の状態、その子の育っている環境、そういうことも全部考えた上での人工内耳手術、という風になればいいな、と思います。

 

私の友達が素敵なプレゼントを贈ってくれました。イギリス製のアンティークのバターナイフ。なんと100年前のですって!すっごいロマン溢れるナイフ。

 

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人工内耳という選択

かなり前なのですが、「音のない世界で」というアメリカのドキュメンタリーを見たことがあります。内容がとても深く、難しく、考えさせられるものだったので記憶に残っています。たしか以下のような内容でした。

 

ろう者の夫婦に生まれた聞こえない女の子の話から始まります。その女の子は聴者の文化に憧れがあり、人工内耳の移植を希望します。両親は娘にろう者として誇りをもって大きくなって欲しいと望んでいます。結局、どんな経過で女の子の気持ちが変化したのかまでは覚えていないのですが、女の子は人工内耳の移植をすることを選択しませんでした。

 

コーダ(ろうの両親から生まれた聴者)である娘に聞こえない子が生まれます。ろう者の祖父母は大喜び。コーダである娘は、聞こえない文化、手話言語を充分理解していて尊重しているのですが、最終的に聞こえない自分の娘に人工内耳の選択をするというものです。コーダである娘が、聞こえない自分の娘に人工内耳をさせることで、ろう者である自分の両親や今まで自分を可愛がってくれた聞こえない人たちを否定することになるのではないか、と悩み、苦しみ、彼女の心の葛藤も描いていました。

 

先日ある本を読みました。聞こえる両親が聞こえない子どもに人工内耳を選択し、その後どのように聞こえない子どもとの関係が変化していくかを数年間にわたって丁寧に追ったものでした。対応手話と音声を使って子どもを育ててきた夫婦2組の話です。それまでは全く音への反応がなかった子どもに、音への反応が見られるようになったということで、聞こえる親にとっては子どもと通じているという感覚が強くなり、子との関係性が変わってきたということを書いています。そして聞こえない子が、親の音声言語を通した著者の言う<声ににじみ出る気持ちの輪郭を理解する>ことで、子ども自身の心の育ちの発達に大きな影響を与えるのではないか、という主旨のものでした。音声日本語を母語としている聞こえる親にとっては、音声言語に自分の気持ちが声のトーンとなって表現される。それが子どもに伝わりやすくなるということで、相互の気持ちの通じ合いの質的改善が認められたということも書かれています。聞こえる親は子どもが少しでも音の世界に近づいてくれると、やはり自分と同じ世界に近づいてきてくれたということで嬉しいのでしょう。しかし、その反面、音声での反応があるということで、聞こえる子どもになったのではないか、という錯覚が両親のなかにおこり、コミュニケーションのすれ違いも起こる場合があることを指摘しています。

そしてその本には、「人工内耳をしたとしても聞こえにくさは解消されないし、聴取改善には個人差が大きい。人工内耳を外せば装用者は再び音のない世界に戻っていくわけであり、その手術は決して聴覚障害を治療するものではない」と書かれています。なので、視覚的な手段である手話や指文字は必ず与えること、そして聴覚障害の仲間とのつながりも大事であると。また、人工内耳の子どもたちに手話や指文字の使用が自由に開かれている、という環境を与えることは大切である、と書かれています。

 

北欧では聞こえない子が生まれたとなると、親は仕事を1年間お休みし、手話講座を集中して受けると聞きました。子どもが人工内耳をしたとしても、手話を与える、ということになっているとのこと。

 

以前、人工内耳をした大学生数名に話をきく機会がありました。装用効果がある人もいれば、そうではない人もいました。でも、共通していたことは、全員が手話を使っていました。日本語対応手話+音声の人もいれば、音声なしの手話の人もいました。そして会場から、子どもに人工内耳をさせるか?という質問があったときに、全員が「させない」と答えていました。

 

私のところに相談にいらっしゃる聞こえる親御さんは、生まれたばかりの赤ちゃんが聞こえないと言われ、それだけでも相当ショックであるのに、何がなんだか分からないまま、やれ補聴器だ、やれ人工内耳だ、療育はどうする、手話を使うのか使わないか、などの選択を次から次へと迫られ、心が落ち着かないまま育児をすることになります。少しでも親御さんの気持ちがはやく落ち着くようにと願わずにはいられません。

 

これからますます人工内耳装用者が増えていくことになるでしょう。人工内耳をして、手話を使わずに育て、聞こえる子の小学校へ入れることを目標に訓練をしているという病院や療育施設があります。私はその考えに反対です。

 

人工内耳の選択は親御さんがするものです。ですから私がその選択をどうのこうの言う立場にはありません。充分な情報を集め、夫婦でよく話し合って決めていただきたいと思っています。そして、選択をする前に、たとえ気持ちが落ち込み、悩み、落ち着かなかったとしても、自分たちの気持ちを律し、聞こえない・聞こえにくいとはどういうことかを充分に理解するように努めてもらいたい。どのようなコミュニケーションをとればよいのかを理解し実践し、子どもに向き合って欲しい。また、子どもと同じ聞こえない人達にたくさん会って欲しいと思います。将来、子どもにどんな風に説明をするのかもきちんと考えておくこともお願いしたいです。

 

そして忘れて欲しくないのは、人工内耳をしても聴覚障害を100%治療できるものではなく、難聴になるためのものであり、必ず聞こえない・聞こえにくい仲間とのつながりや手話や指文字を与えてあげて欲しいと思います。

 

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南村先生の本、在庫まだあります。お問い合わせください。

 

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南村先生の本

私の恩師である南村洋子先生の本ができました!

 

初めて南村先生にお会いしたのは、先生がトライアングルの教育主任をおやりになっているときでした。実習先が数日前になって急きょトライアングルになったのです。本当は別の小児施設へ実習に行くことになっていたのですが、そこへ実習に行くことになっていた同期が突然行けなくなり、私と交代することになったのです。

 

私は本当にとんでもない人で、聴覚障害に関しては一応は勉強していたのですが、まったくと言っていいほどに興味がなく、何もわからないまま実習の日を迎えました。

その実習での様子は以前書いたブログ(2017年9月 理想的な子育てのチャンス! http://heart-kotoba.hateblo.jp)でちょっと紹介しています。

 

南村先生に会うまでは、私は言語聴覚士の仕事の王道である、失語症の分野での言語聴覚士になることを目指していました。今は亡くなった父が50歳のときに脳梗塞を患い、その様子を見ていたからです。失語症にはならなかったのですが、右脳のダメージが大きいとやっぱり変なのですよね。コミュニケーションが成立するようで成立しない。噛み合わない。父がきっかけでこの道を目指すことになったと自分自身を理解したのは、だいぶあとだったのですが。また、あの時代のリハビリの施設での専門家と言われる方達の対応にも、父と一緒に悔しい思いをしたことがありました。

 

不思議ですね。人間の縁は。

私は南村先生に会わなかったら、小児の分野での仕事はしていなかったのです。

なぜ、聴覚障害の分野に興味を持ったのかを考えると、やはり海外での生活が長かった、ということがあげられると思います。異文化の中で暮らすって、ある面ではとっても大変なのですね。いつも緊張しているというか、なんか地に根っこが生えないというか。いつも疎外感的なものを味わい、そして誰かと一緒にいてもなんとも言えない孤独感があるのです。言葉の面でも、冗談なんて一緒に笑えないことが多い。言葉の壁を克服したとしても、その国の人が小さい頃から、皮膚から吸収するようにして育まれることばや文化の前では、私は入っていけないただの外国人なのです。冗談なんて宗教からくる冗談もあるので、よくわからないことがある。そして重苦しくなるような街並み。何百年も前から建っている歴史のある建物。その街並みは、何百年も前から何も変わらない。そういう中での暮らしを体験し、コミュニケーションについてすっごく悩み、その体験が多分重なったのだと思います。

 

南村先生のところでの実習のとき、フランス人の中にいて、私ひとりが笑えないという体験を話しました。そのときに南村先生が「でも、あなたは聞こえる人だから、わからないことがわかるのよ。そこにその情報があることがわかり、自分がわからなかった、ということがわかる。そこが違うの」と言われたことを思い出します。

 

言語聴覚士という仕事は一般的な仕事ではありません。<普通>に生活してきたら、多分、一般的には、<普通>には選ばない道だと思います。

言語聴覚士に限らず、こういう仕事、こういう勉強をするということは、自分の中に何かきっかけがある、ということなのです。自分の中に問題や解決できていない問題があり、興味がわく。そういうことだと思っています。

だから、聴覚障害教育に限らず、障害児教育に携わっている人は、変な言い方ですが、自分は<一般的な道や考え方から外れた>という思いを持ちつつ、自分自身を見つめながら相手に接することが大切と思っています。

 

南村先生の本。ハート&コミュニケーションでも売っています。どうぞハート&コミュニケーションのホームページのメールからお問い合わせください。1冊1200円です(送料は別)。

 

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手話と音声

「手話を使うと音声が出なくなるので、手話を使うのはやめたほうがいい」「手話を使うと目に頼ってしまって、耳を使わなくなるから、手話は使わないほうがいい」と、言語聴覚士(ST)や医師に言われたという親御さんが時々いらっしゃいます。初めて見学にいらっしゃる親御さんたちは、学校で手話を使っている、ということを聞き、心配になる方もいらっしゃるようです。また、言語聴覚士に「手話を使うことをやめなさい」と強く言われ、不安になり、学校に来る足が遠のく方もいらっしゃいます。学校での子どもたちの様子を見て、そうではない、ということが分かり安心される方もたくさんいます。

 

私がみている子どもたちは赤ちゃんの時から、手話(日本手話ではない日本語対応手話)+音声日本語で育てられています。

 

聞こえない両親に育てられている聞こえにくいお子さん。ご家庭ではもちろん音声無しの日本手話。学校へ来ると日本語対応手話。でも、ちゃんと音声が出ています。しかも結構明瞭!そして、聞こえないお友達とおしゃべりをする時は日本手話を使って、日本手話ができない聞こえる人と話す時は、日本語対応手話+音声日本語で、などと小さいのに相手のコミュニケーションモードを察知し、そのモードに合わせてくれるのです。すごすぎ!

 

軽い難聴でとってもきれいにおしゃべりができるお子さん。ご両親(聴者)がろう学校を選択して小さい頃からずっと通っています。その子もコミュニケーションモードをその時その時で変えて生活をしているからすごい。私にしゃべりかけて来てくれた時は、音声日本語でした。(この子との初めてのおしゃべりはとっても衝撃的で、多分一生忘れない!一緒にたまたま給食を食べている時に「先生のお腹には、赤ちゃんがいるの?」でした。(苦笑) だから「ただ、太っているだけ」と返事。アハハ)この子も様子を見ていると、ちゃんとコミュニケーションモードを切り替えています。聞こえないお友達とは音声無しの手話。聞こえにくいお友達とは日本語対応手話+音声日本語。

 

反対に、誰も教えていないのに、日本手話的な表現が乳幼児クラスにいる時からできるようになるお子さんもいます。この子は聞こえる両親に育てられている聞こえにくいお子さん。家では日本語対応手話+音声日本語で育てられ、どちらもできるようになってきています。誰も教えていないのに、「僕、できたよ」と手話で表現した時だったかな。頬を最後にプッと膨らませる表現をしたのです。これは日本手話的な表現。どこで覚えたのかな、と考えてみると、多分、クラスの中でだと思います。クラスにいるデフファミリーのお子さんたちとその両親とのコミュニケーションの中で自然と学んだようです。

 

聴力が厳しいお子さんで、ご両親は聴者。小さい頃から手話+音声で育ち、どちらも上手になっているというお子さんもいます。

 

ダウン症の聞こえにくいお子さん。以前もこのブログで書きましたが、手話を始めて1年くらいたった時、おっぱいという手話と「オパー」という音声言語が一緒に出ました。お母さんは大喜び。

 

聞こえにくいお子さんたちを見てみると、ほとんどのお子さんで最初に手話での表出が出てきます。手話はイメージがしやすい言語です。自分の頭の中のイメージとイメージしやすいことばが最初に結びつけられ、そのあとに音声言語が出てくるという様子が見られます。人間の発達は動作模倣から音声模倣という発達をとげるので、手話が音声を促すことにも役立っているのかも知れません。

 

また、手話を小さい頃から与えることで、言語の獲得、情報の獲得、知識の獲得、知的な面での発達は、聞こえるお子さんと遜色なく育ちます。生後3ヶ月頃から乳幼児クラスに通い、10ヶ月くらいになると手話での理解が見られ、1歳の頃には手話での表出が見られるようになります。

 

聞こえない・聞こえにくいお子さんだけでなく、発達に遅れがあり、なかなか音声言語が出ないお子さんに手話を入れたところ、やはり最初に手話が出て、そのあと音声言語が出るようになりました。その子の最初に出た手話と音声言語は「うどん」

 

それから、手話を使うけれども、手話を使うのは最初だけで、音声が出るようになったら手話を外していく、という教育を勧めている機関もあるようですが、手話は言語ですから外しません。私たちは日本人で日本語で育って、途中で日本語ができるようになったからって外さないでしょう?

 

だから、最初のようなことば「手話を使うと音声言語が出にくくなるから、手話は使わないほうがいい」なんて安易に専門家と言われる人たちに言って欲しくない!手話は聞こえない・聞こえにくい子どもにとって、外せない言語なのですから。そして、たくさんの子ども達の様子を見ていると、聴力レベルや育っている環境、発達など、さまざまなことが関係しているけれど、一概に手話が音声言語の妨げになっているとは言えない。むしろ、音声言語だけしか与えられない、聞こえない・聞こえにくい子の方が心配です。

 

下の写真は、モロッコ風クスクス。夏になると食べたくなる料理。

 

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